心の姿見〜エレファントマン〜

  • 2007/09/20(木) 14:43:28

不朽の名作

「エレファントマン」

主演 藤原竜也(ジョン・メリック)
   今井朋彦(トリーブス)
   小島聖(ケンドール)
演出 宮田慶子 作 バーナード・ポメランス

1981年公開されたデヴィッド・リンチ監督作の「エレファントマン」
かつて若かりし日に観た記憶がある。
像のように巨大な頭のエレファントマンことジョン・メリックはその悲劇の奇形のため見世物として金を得て生計をたてるしか生きる術を知らない。
しかしその精神は純粋で美しいものであった。「僕は動物ではない、僕は人間だ」
ヒューマン・ドラマの名作として今も語り継がれ、舞台の演目としても世界中で演じられている。まさしくその舞台版。

作品はヒューマンドラマではなく、人間というものの醜悪さ愚かさ、物質社会がもたらす精神の奇形を美しい音楽と重厚な台詞で綴られていた。

さて、ここからは私の主観なのだけど
この舞台のDVDを初めて観た時、あまりにも辛く、感動というよりは虚しさと哀しみで一杯になった。台詞はメッセージ性が強く、演出も音楽も美しくて見事だし、役者は全員素晴らしい演技。ただ・・「愛」を全く排除しているかのように残酷な言葉の数々・・。

「俺、探してんだ・・「しあわせ」を・・」

見世物として生計をたてていた頃の台詞。
トリーブス医師に救われ、病院暮らしで物質的には恵まれ、ケンドール夫人という理解者を得て、ジョンは彼女に憧れを抱く。

「ここは君の約束の地だ」ジョンにそう諭すトリーブス

だけど、その「家」には彼の思い描いていた「しあわせ」はなかった。

「慈悲がこんなに残酷なら、正義となったらどんなことをするんですか?」

これはジョンの劇中での台詞だけど、すさまじいメッセージを含んでいる。
そのメッセージは受け止めはしたけど、それよりもジョンが求めていたものはもっと違うものなんじゃないか・・って私は感じた。

誰一人としてジョンを愛した者はいなかった。

人間として誰かを愛し、愛されること・・
これが人としての「しあわせ」なんじゃないだろうか。


「愛」というのは時にはやっかいなものだとは思うけど、なければ人の心は歪んでいく。

そう、まさしく精神の奇形を起こす。(劇中の「精神の奇形」はいわゆる物質社会で飽満した人々ことを言っているのだけど・・)

「僕の頭がこんなに大きいのは夢が一杯詰まっているからなんだって、思うんです。夢が外にでられなかったら・・・どうにかなるに違いない」


夢の詰まった大きな頭は彼に安眠を与えなかった。
横になって眠ろうとすれば、頭の重みで器官は潰され、首の骨は折れる・・。

クライマックス・・美しい音楽に添うようにして、ゆっくりと横たわるジョン・・
そのシーンの美しさは言葉も出ぬほどのものだけど・・同時に報われなかった夢と愛を追い求めるように天をつかもうとする仕草にその手をつかむ者さえ現れれば・・と絶望と哀しみに満ちていて、涙が止まらない・・。

この作品の竜也くんは美しい。
演出家が女性だからだろうか?
「彼が美しければ美しいほどそれが鏡となって周囲の人々の醜さを映し出す」
そんな発想は女性ならでは・・・。
特殊メイクなしにこの難役を演じた竜也くんは素晴らしかった。「表現」するってことはこういうことなのか?・・とその肉体表現の能力の高さにため息が出るほど。

この地上において報われなかったその美しい魂は彼の信じる天国へと導かれていっただろうか、そして今も天上において、地上を見つめて小さな微笑をたたえているだろうか?それとも・・今も「正義」の名の下に人間たちが起こしている数々の惨状に絶望の涙を流しているのだろうか

私の身長が極地までとどき 手のひらで大海をつかめるとしても  私の大きさを測るものは 私の魂 心こそは人の基準なり  (ジョン・メリック)

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  • 2007/10/27(土) 14:32:49

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